現代美術って、
視覚的に(視覚的にの部分が重要だと思う)デザイン的な匂いを感じる作品が多いなと
感じる時があるけれども
僕としては、現代美術の起点となる人がデュシャンである場合、
その作品(サインされた便器や自転車の車輪)は観念と工業製品、
工業製品はデザイン(人の用途の為に設計された)
無しでは成立しないものだから、
流れとして、
現代美術作品は
コンセプトとデザインであるのはあり得ると思う。
しかし、危険なのは
デザインは最初は美しいけれども
時間が経つにつれて
美しさは消費されていくものが多い。
それに対して
時間がたつにつれて美しくなっていく美がある
時間がたつにつれて美しくなる美の正体は
はっきりとは今の僕は言語化できないけれど、
確かに存在していると思う。
その部分はもう少し考えたいと思う。
今の話は視覚的な部分に重点を挙げた話だという事は
僕は充分理解しているつもりだ。
だから、現代美術で最後に残るのはコンセプトの部分だけかもしれない。
消費されるのが現代美術の宿命かも。
あと、この文章は僕の作品には触れた文章ではないし、
この先、考えが変わることもあるかもしれない。
また、現代美術が何を起点として、どこまでがということももちろん問題だ。
ただ、今回は視覚的にデザイン的な作品についてという事について
考えてみた。
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