2016年10月2日日曜日

現代美術って、


視覚的に(視覚的にの部分が重要だと思う)デザイン的な匂いを感じる作品が多いなと

感じる時があるけれども

僕としては、現代美術の起点となる人がデュシャンである場合、

その作品(サインされた便器や自転車の車輪)は観念と工業製品、

工業製品はデザイン(人の用途の為に設計された)

無しでは成立しないものだから、

流れとして、

現代美術作品は

コンセプトとデザインであるのはあり得ると思う。

しかし、危険なのは

デザインは最初は美しいけれども

時間が経つにつれて

美しさは消費されていくものが多い。

それに対して

時間がたつにつれて美しくなっていく美がある

時間がたつにつれて美しくなる美の正体は

はっきりとは今の僕は言語化できないけれど、

確かに存在していると思う。

その部分はもう少し考えたいと思う。

今の話は視覚的な部分に重点を挙げた話だという事は

僕は充分理解しているつもりだ。

だから、現代美術で最後に残るのはコンセプトの部分だけかもしれない。

消費されるのが現代美術の宿命かも。

あと、この文章は僕の作品には触れた文章ではないし、

この先、考えが変わることもあるかもしれない。

また、現代美術が何を起点として、どこまでがということももちろん問題だ。

ただ、今回は視覚的にデザイン的な作品についてという事について

考えてみた。







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