2016年10月23日日曜日

NHKで格差社会のお金についての番組を見ていた。

僕自身、格差の問題はすごく考えたりする。

例えばテレビを見ていても

あるチャンネルでは凄く立派な部屋で裕福な食事やモノにあふれた生活を映していて、

そして、またチャンネルを変えると

本当に貧しい生活やお金のない人に

無料でご飯を食べさせる団体などの番組をやっていたりする。

お金がすべてではないと僕も考えるタイプの人間だけども、

それでもやはりなぜ人間はこんなに格差、違いがあるのだろうかと思う。

宗教はみんな平等だとか言葉を書いたりしているが、

お金に関してはやはり、もう世界的にも確実な格差が広がっているみたいだ。

共有経済という言葉が出ていた。

資本主義に代わるものではなくて、その先に出てくるもの見たいな感じだったが、

そういうものがかなりの勢いで出てきているみたいで、

そういった新しい何かがやはりもう必要なのかもしれないと思う。

現代美術は富裕層を無視できないというか、富裕層が基盤になっているものだけれども

お金の考え方、付き合い方も変われば、アートの価値、趣向なども

変わっていくかもしれない。

僕は会社を辞めたんだけれども、

その理由はお金ももちろん大事だけれども、それ以上に時間が大事だったからだ。

辞めてあらためてお金の大事さも痛感している。

しかし、時間は大事だ。






2016年10月18日火曜日

僕も憧れる画家は何人かいるのですが、

同じような絵を描きたいのではなく、

同じように無駄な力が抜けている絵を描けるようになればなぁと

思ったりします。

もちろん、絵の内容とか伝わってくる詩情とか

理屈抜きで感動するのですが

どうやったら、ああいった風に無駄な力がなく、それと反対に

的確な表現ができるのかと引き込まれてしまいます。

逆に、絶対にああいう絵は描きたくないなと思う絵もあるのですが。

僕ももっと、無駄な部分を削いで、なるべくシンプルな手法で

的確な表現ができるようになれればと思います。

簡単に言うともっと絵を楽しみたいということかも知れません。

絵は手法自体が魔法だと思います。

魔法を楽しみたい。

「楽(らく)」と「楽しい」は違うという意見もあるのですが、

僕は「楽」と「楽しい」は同じとは思っていませんし、

そういうことを言葉遊びで考えるのも

どうかと思います。







2016年10月15日土曜日

「別れ」

別に男女の別れだけではないですが、


色々な形の別れがあると思います。


卒業

友情の終わり

恋愛

引っ越しや戦争もあるかもしれません。

どれにしても、

別れというのは、

特に「死」に関しての場合ですが、

最後の瞬間は

いつもドラマのように

相手と最後の別れの挨拶ができるわけではないと

思います。



肉親の最後の瞬間に立ち会えなかった人や

いきなり事件に巻き込まれて

ただ呆然とするしかない別れもあると思います。


自然というのは

お別れ会や卒業式などは本来してくれない・・・。

子供の時のように

みんなでお別れ会を開いたり、

感動的に別れを演出してくれない。

最後の別れの言葉さえ言える時間を与えてくれない。

本来、別れはあっけなく、非情で、

残酷なものです。

そのことを最近ずっと考えていて、

なんて自然て冷淡なんだろうと思います。

自然ではなく、神様でもいい。

だって、何年も苦労を共にして付き添った夫婦でさえ、

せめて一言別れの言葉を言う時間も与えることなく

突然の事故で別れることがあります。

そういうことを考えて、ちょっと

悲しい気分になっていたのですが、

考え方を変えてみると、

本来、そういったセレモニー、式、演出なんてものに

人間関係の意味は無く、

その人との間にある何か、

経験とか、

感情とか

関係性みたいな事こそに

その人から

もらった大切なものが含んでいるのではないかと思います。

自然はそういうことを教えてくれてるのかなと

思ったりもします。

だから、別れは

あっけなく

残酷なのかもしれない。










2016年10月13日木曜日

手つかずでたまっていた下書きの絵もほとんど終わりになってきた。

それでも、描いたから終わりというわけではなく、

後の詰めがすごく重要だ。

下書きの段階で

あまり良い絵では無いなと思っていた絵ほど、

修正を加えることで面白い絵に変わることがある。

今、手掛けている絵もそうなるかもしれない感じだ。

いうまでもなく、その過程は本当に落ち込むところまで

悩むけれども。


2016年10月5日水曜日

かなり昔にも書いたんですが、

天下一品のラーメンって

やっぱり素晴らしいなというか、すごいなと思う。

あのドロドロは意味が分からないし、

食べた後の満足感が半端ではない。

天下一品のラーメンは、あれはラーメンというよりも

天下一品としか言いようがないみたいなことが書いてあって

僕なりにもにそうだと思う。

多分ラーメン選手権みたいものというか、

ラーメン博覧会みたいなものがあった場合、

知名度に比べて、あんまりトップに名前は浮かんでこないのではないかという気が僕はする。

唯一無二の食べものという方が合っている感じがするから。

話は飛んで、僕の勝手な印象だけれども、

岡本太郎もそういったアーティストのような気がする。

強烈すぎて、現代美術とか一つの分野の中に大人しく入るような作品では

ない気がする。

岡本太郎でしかない。

天下一品大好きだ。僕だけではないと思う。










あんまり、こういった事を書くのは危険ですが、

オーラって普通に見えるような・・・。

自分の手を背景が黒のところでじっと見てると、

指の先に、煙のようなものって

見えるんですね。

指の方に集中してしまうと、見えないですが

指から少し離れた先に集中すると

余裕でなんか、薄く色?煙?が見えるような・・・。

ちょうど実際は日常的に見えているんだけれども

気が付いていないだけ、みたいな感覚に近い。

補色残像とかいう説もあるようだけれども、

明りのない真っ暗な部屋でも関係なく同じように見えるし・・・。

どうなんでしょうか。

訓練すれば見えるって話もよく見ます。

幽霊とかは見たことないですが、

僕は現実って何なのかすごく考えてしまいますので、

すごく興味があります。

僕としてはあの世は絶対にあると思います。

最近のオカルト系のTV番組は作り物臭くて、

いつも見てしまう僕でも、さすがに

確実に面白くなくなってきてますが、

以前はCGなど映像技術が乏しかったので、

見ていて面白かったし、映像的にもっとリアルだった感じがします。

時代もあったんだと思いますが。


2016年10月2日日曜日

現代美術って、


視覚的に(視覚的にの部分が重要だと思う)デザイン的な匂いを感じる作品が多いなと

感じる時があるけれども

僕としては、現代美術の起点となる人がデュシャンである場合、

その作品(サインされた便器や自転車の車輪)は観念と工業製品、

工業製品はデザイン(人の用途の為に設計された)

無しでは成立しないものだから、

流れとして、

現代美術作品は

コンセプトとデザインであるのはあり得ると思う。

しかし、危険なのは

デザインは最初は美しいけれども

時間が経つにつれて

美しさは消費されていくものが多い。

それに対して

時間がたつにつれて美しくなっていく美がある

時間がたつにつれて美しくなる美の正体は

はっきりとは今の僕は言語化できないけれど、

確かに存在していると思う。

その部分はもう少し考えたいと思う。

今の話は視覚的な部分に重点を挙げた話だという事は

僕は充分理解しているつもりだ。

だから、現代美術で最後に残るのはコンセプトの部分だけかもしれない。

消費されるのが現代美術の宿命かも。

あと、この文章は僕の作品には触れた文章ではないし、

この先、考えが変わることもあるかもしれない。

また、現代美術が何を起点として、どこまでがということももちろん問題だ。

ただ、今回は視覚的にデザイン的な作品についてという事について

考えてみた。







突然、友達になっていただいていた方が亡くなってしまった事を

ご連絡いただいた。

住んでいるところも遠いので親しいという感じではなく、

連絡を頻繁にしていたわけでもない方でしたが、

とても、人間的に優しい、本当にいい人というのが

とても印象深い方でした。

もう少し、実際に会って話をする機会があったらと

本当にいい人だっただけに寂しく、後悔の気持ちです。

僕はもっと人とかかわりを持っていかないといけないと思いました。

ずっと、人は生き続けられるわけではなく

必ず死がある。

いつまでも永遠に会うことはできない。

その人と会うことのできる時間は

限られている。

僕は本当に人との関係を粗末に扱ってきたのだろうと

思います。

本当に馬鹿だなと痛感しています。

その方にもっと人とのかかわりを大切に、出会いほど

宝物はないことを教えていただいたと思っています。

そして、今、僕とかかわりを持っていただいている人に

感謝しかありません。